人生何度目かの「一生の不覚」

 2017.05.20 Saturday 

落ち込んでます。

全く立ち直れそうにありません。

「一生の不覚」です。

 

まあ、これまでも何回か「一生の不覚」はあったと思いますが、本日は何度目かの一生の不覚です。

 

明日から旅行の予定だったんです。

仲良しのお友達と数人で出かけるという私にしては珍しいグループ旅行。

行先は金沢。

気分もウキウキで、今日も仕事がんばろうと、午前中は地元のイベントに出て、午後からは大多喜へ行って。

気分は、「明日は旅行だ!」と張り切ってました。

私はしょっちゅういろいろな所へ出かけてはいますが、ここ3年ほどはプライベートでの旅行ではなく、業務での出張というのは気が張ってますし、結果も求められますから、ルンルン気分にはなれません。

だから、明日からの旅行、とても楽しみにしていたんです。

 

行先は金沢ですから、「みやび」な世界でおいしいものを食べようと手配もしてもらっていました。

 

そうしたら、夕方電話がかかって来たんです。一緒に行く友達から。

電話に出た私は、開口一番、「明日はよろしくお願いします。」と申し上げました。

すると電話の向こうでは、お友達が、

「今どこにいるの? もう金沢着いたんだけど、何時に来るの?」

と言うではありませんか。

私は「え〜! 旅行は明日じゃなかった?」

「何言ってるの? 今日だよ!」

私は動揺を隠せませんでした。

こういうのを青天の霹靂というのでしょうか。

全く予期せぬことが起こった時や、信じられないことが起こった時って、本当に固まってしまうのです。

 

 

家に帰って旅行会社から届いていたチケットを見ると、確かに5月20日。

今日だったんです。

私はてっきり明日だとばかり思い込んでいたのです。

 

「新幹線も隣の席空席のままで金沢まで来たのでさみしかったよ。」

と、電話の向こうの声。

 

ひと月も前に確約して、お金も払い込んだというのに。

 

まあ、旅行相手が男友達で良かった。ということだけが救いではありますが。

 

それこそ大丸のデパ地下でつまみとお酒を買い込んで、新幹線の中で酒盛りをやるぞ。

プラのカップと氷も買って乗るぞ。

と、明日の予定を考えていたのに・・・

 

今頃、みんな、うまいもの食べてるんだろうなあ。

 

それよりも、えらい心配と迷惑をかけちゃったので、あわす顔がないなあ。

 

とまあ、ショックに打ちひしがれている今夜なのであります。

 

今夜は金沢で、アグネスラムが可愛かったねえ、などと昔談義をしようと思っていたのですが、

仕方がないので、今から、家呑みします。

 

団長、これだけ言えば、誰と旅行へ行くはずだったか、わかりますよね。

世界的なアーティストですから、ショックも大きいのです。

 

私は明日もお仕事に行こうと思います。

地元のイベントに行きます。

 

こうして傷心の56歳の夜は更けて行くのであります。

 

お友達の皆様、大変申し訳ございませんでした。

記憶の修正。

 2017.05.19 Friday 

先日、記憶の崩壊というテーマでブログを書きました。

昔の記憶がどんどん崩壊していく中で、ふと気づくと崩壊した記憶の破片が落ちている。

その記憶の破片を拾い集めて繋げてみると、ある程度修復が可能で、崩壊したはずの記憶が不思議と蘇ってくる。

そんなことを書いたのですが、今日はまた別の話。

「記憶の修正」について。

 

実は私、小学校5年生の時に初めて大型時刻表を買いました。

1972年、昭和47年3月号。

山陽新幹線が岡山まで延伸開業したときの白紙ダイヤ改正号が、私が初めて買った大型時刻表。

当時の金額で250円でした。

それまではポケット時刻表というのを昭和45年と昭和46年に1冊ずつ買っていて、100円でしたが、大型時刻表を買ってみて驚いたのが、全部の駅の駅名がひらがなで書いてあったんです。

これなら読めない駅名も全部読める。

ちょうど、親戚のおじさんが「みんなで京都へ行こう。アキラ、お前が計画を立てろ。」と言われまして、小学校5年生として見たら、そりゃあ大旅行ですから、もう毎日、時刻表と首っ引きで、どの列車に乗ろうかと考えたのですが、それが私が時刻表を「読書」することになった始まりです。

 

さて、毎日時刻表を読書していると当然書いてあることを覚える。
何を覚えるかといえば、ひらがなで読めるようになった駅名が頭の中にスラスラと入ってくるのです。

 

ふじさわつじどうちがさきひらつかおおいそにのみやこうづかものみやおだわらはやかわねぶかわまなづるゆがわらあたみ。

 

とまあこんな感じです。

 

そうなると面白いもので、静岡まで進み、名古屋まで進みと、京都へ旅行に行くころまでには京都までの駅名をそらんじていました。

でもって私が選んだ列車は急行の「銀河2号」。

当時すでに新幹線が当たり前になっていた時代に、寝台車で編成される夜行急行列車の一番後ろに2両だけ連結されていたスハ43系の座席車両でした。

当時の言葉で言うと「貧乏人専用車」。

10数両の寝台車の編成の一番後ろに2両だけ座席車が付いていたのですから、そう言われていました。

でも、親戚のおじさんファミリーも、文句ひとつ言うことなく、私が選んだ列車に一緒に乗ってくれましたので、今思い出してもありがたい思い出なのですが、初めて乗る夜行列車に小学生としては興奮して眠れるはずがありません。

窓の外に次から次にやってくる通過駅の駅名表が、何と面白いことに、私がおぼえた順番で、正確に一つずつ表示されるのです。

結局ほとんど眠れないまま京都に着いた私は、翌日の市内観光バスの中で爆睡したのでありますが、この経験が実に私の時刻表にのめり込むきっかけになりまして、駅名を覚えるということが日課になりました。

 

すると、あっというまに大阪を過ぎ、岡山を過ぎ、広島を過ぎて、

 

とのみほうふだいどうよつつじおごおりかがわほんゆらことううべおのだあさはぶおづきちょうふながといちのみやはたぶしものせき

 

と本州の西の果ての下関に到着。

すると、当然のように関門トンネルをくぐって九州に上陸。

 

もじこくらしんなかばるとばたえだみつやはたくろさきおりおみずまきおんががわえびつあかまとうごうふくまこがちくぜんしんぐうかしいはこざきよしづかはかた。

 

と博多に到着。

こうなるともう止まりません。

熊本を過ぎて、水俣を過ぎて、西鹿児島にまで到達しました。

当時の寝台特急「はやぶさ」と同じコースです。

すると今度は

 

りゅうがみずしげとみちょうさかじきはやとこくぶきりしまじんぐうきたながのだおおすみおおかわらきたまたたからべいそいちにしにみやこのじょうみやこのじょう

 

と日豊本線を上りはじめ、これまたあっという間に

 

やなぎがうらぶぜんぜんこうじあまついまづひがしなかつなかつみけかどうのしまぶぜんしょうえしいだついきしんでんばるゆくはしおばせかんだくさみしもそねじょうのみなみこくらにしこくらこくら

 

と九州を一周しました。

 

ちょうどそのころ、今度は山陰本線のD51が無くなるので乗りに行こうと計画を立てていましたので、では、山陰本線を上ってみようと考えまして

 

はたぶあやらぎやすおかふくえよしみうめがとうくろいむらかわたなおんせんこぐしゆたまうかほんごうながとふたみたきべこっといながとあわのいがみひとまるながとふるいちきわどながとし

 

と山陰本線もどんどん進んできて、

 

かめおかうまほりほづきょうさがはなぞのにじょうたんばぐちきょうと

 

と全通してしまいました。

 

毎日毎日時刻表を見て、こんなことを覚えている私を横目に、学友たちは一生懸命数学の公式を覚え、あるいは英語の単語を覚え、古典をそらんじて行ったにもかかわらず、私はそんなことは一切気に留めずに駅名の暗記に夢中になっていたわけでありますが、実に不思議なことなのですが、このような駅名の暗記も、高校生になるとだんだんと速度が落ち始めて、大学生の頃には全く頭に入らなくなってしまいました。

メモリが一杯になったとでもいうのでしょうか。

全く覚えられなくなりまして、覚えようという気にもならなくなりました。

 

そしてさらに不思議なことに、あれから45年も経過しているというのに、当時覚えたことは、今でも忘れずに覚えているのです。

 

これはなかなか便利なもので、日本中の地理がほとんどわかるようなものですから、大人になっても結構役に立っているのですが、ここで一つ問題があるのに気づくわけです。

 

それが「記憶の修正」です。

一度覚えた駅名は、その後変更になったりして修正をしていかなければならないのです。

 

例えば、私が駅名を覚え始めた昭和47年には新幹線が岡山まで開業しましたが、その3年後の昭和50年には博多まで伸びています。

私が山陽本線の駅名を覚えたときには、

 

くらしきにしあちたましまこんこうかもがたさとしょう

 

だったのですが、玉島が新倉敷駅になりましたので、

 

くらしきにしあち「しんくらしき」こんこうかもがたさとしょう

 

となるわけで、

 

はぶおづきちょうふながといちのみやはたぶしものせき

 

 

はぶおづきちょうふ「しんしものせき」はたぶしものせき

 

となりました。


これは昭和50年の話で私は当時中学3年生でしたから、頭の中の駅名を新駅名に置き換えることはできたのですが、その後国鉄がお客様を増やそうと全国各地に新駅をつくり、それがJRになってからも続きましたのですが、これが対応できないんです。

 

岡山近郊を例にとると

 

わけくまやままんとみせとひがしおかやまおかやまにわせなかしょうくらしき

 

が私の記憶なんですが、今は、

 

わけくまやままんとみせと「じょうどう」ひがしおかやま「たかしま」「にしがわら」おかやま「きたながせ」にわせかなしょうくらしき

 

となっているのであります。

 

こういうことが全国いたるところで起きていて、今となってはアルコール漬けの頭脳では修正することが不可能なのであります。

 

例えて言うならば、記憶というのがテキスト化されていれば、並び替えたり入れ替えたりも容易なのでしょうが、なんとなくPDFのようになっているのに気付くわけです。

だから、その一部分だけ修正することができないのです。

 

はてさて、どうしたらよいものか。

 

私は脳科学者ではありませんので、どうすることもできぬまま今日に至っているわけで、だからと言って遠いところの鉄道の駅名の順番など多少違っていても実生活に不便があるわけではありませんから、まあ、そのままにしているのであります。

 

多分、一生、このままなんでしょうけど、駅名だけじゃなくて、いろいろなことに「修正」がきかなくなっているわけですから、そう考えるとちょっとだけ焦るのであります。

でもって、そういう時は、やはり脳みそをアルコール漬けにするというのが、安心する一番の方法なんだと、アルコール漬けの脳で納得している今夜の私なのであります。

 

ご希望の方には、今度やってあげますね。

駅名朗読。

 

ところどころ飛んでるとはいえ、不思議と忘れないんですよねえ、これが。

 

でも、誰か修正方法をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。

 

よろしくお願いします。

GW後のいすみ鉄道。

 2017.05.18 Thursday 

GWが終わって10日がすぎました。

いすみ鉄道は静かないい時期を迎えています。

 

5月2日に日本テレビの日テレニュース24に出演させていただきましたが、その時に「GW後の時期は山の緑がとてもきれいで一番いい季節ですよ。」というお話をさせていただきましたが、まさに今がその季節です。

 

日テレニュースの動画リンクがありますので、ご興味のある方は消えないうちにご覧ください。

 

日テレニュース24 「飛躍のアルゴリズム」 5月2日放送 ←ここをクリックすると動画が見られます。

 

1〜5に分かれていますので、順番にご覧ください。

 

さて、その最高にいい季節のいすみ鉄道を、上総中野の渡辺新悟さんが毎日記録してくれています。

新悟さんには本当に感謝感謝です。

地元の方に愛されてるってとてもうれしいです。

 

では、どうぞご覧ください。

 

【5月8日】

 

新緑の萌木色が本当にきれいですね。

 

【5月9日】

 

 

 

【5月10日】

 

 

【5月11日】

この日は晴れました。萌木色です。

藤の花のトンネルを抜けて・・・

 

【5月12日】

 

このところキハ20が大活躍です。

 

【5月13日】

キハ運転日。あいにくの雨。

ということは、雨の日スペシャルが見られます。
雨の日はキハの担当乗務員が好きなヘッドマークを取り付けて良いことになっています。

この日の朝の快速はこれ。

台座だけ。

実は国鉄時代から急行用の車両は急行列車の間合い運用よく快速や普通列車として走っていたことがあるのですが、そういう時は台座だけを取り付けて、こういう状態で走っていました。

という国鉄時代の再現です。

わかるかなあ? この価値が。

でもって急行「フラミンゴ」。

昔フラミンゴのショーで人気があった行川アイランドにちなんだ列車名です。

昭和40年代にはキハ28で本当に房総を走った列車です。

ボンネットバスもまだ帰らずにたたずんでいました。

 

【5月14日】

この日もお天気が今一つ。

だから雨の日スペシャルで「さざなみ」

雨の日に来るといい写真が撮れますよ。

藤の花のトンネル。

さりげない1枚だけど、すごい写真です。

昭和50年代の国鉄ですから。

 

【5月15日】

 

 

素敵な所でしょう。 いすみ鉄道沿線って。

 

【5月16日】

 

 

 

【5月17日】

 

 

少しずつ緑が濃くなってきた気がします。

 

【5月18日】

 

そして今日。

レストラン貸切運転日でキハが走りました。

駅構内の1カットですが、良いでしょう。

 

 

稲も少しずつ大きくなってきました。

 

いすみ鉄道沿線って素敵な所なんです。

 

今度の週末、いすみ鉄道でふらりと「旅」してみませんか。

駅中ビジネスと上野東京ライン。

 2017.05.17 Wednesday 

何かで読んだのですが、JRが駅中ビジネスを積極的に展開していることについて、批判的な意見を述べているものがありました。

気にしてみると、そういう意見は一つや二つではありませんね。

交通関係のネット記者が書いているのがほとんどだと思いますが、内容的には「国鉄の巨額の赤字を全部国民に押し付けておきながら、自分たちの駅構内という独占的に有利な場所で、鉄道事業と全く関係ない商売を始めることはけしからん。駅前商店街等の民業圧迫である。」というような内容です。

確かに、国鉄時代の多額の借金という負の資産を相続せずに、構内営業権などの正の資産のみを主張するやり方は、世の中の常識から見たら受け入れられるものではありません。国鉄民営化から30年が経過して、当時の事情を知っている人たちはみな50代以上になっていますから、私たちがそういう声を出して行かない限りは、いずれ忘れ去られてしまうわけで、数兆円の赤字を国民に負担させたことのすべてがなかったことになってしまうという危機感はあるのですが、でも、こと駅中ビジネスを見る限りにおいては、私は全く別の見方をしています。

 

ネット記者の書いた文章を読むと、改札口の中のお客様に対してキオスク程度ではなく、ショッピングモールのような駅中ビジネスをするということは、本来商業施設に課されるべき固定資産税が優遇されているとか、駅中で買い物をしてしまうと駅前商店街に人が流れなくなるということで駅前商店街がダメになるというような意見が多いのですが、では駅中が儲かるのかといえば、そりゃあ儲からないことはないでしょうけど、考えているよりは難しいのではないかと私は考えています。

 

以下は私が独断と偏見で駅中ビジネスを見た場合の意見でありますから、その私の意見に対する反論等は基本的に受け付けるつもりはありませんので、お読みになられる方はそのつもりでお進みください。

 

例えば東京駅や上野駅、品川駅、新宿駅などで駅中ビジネスが積極的に展開されていますが、私はああいうビジネスを見るにつけ、「大変だろうなあ。」と思うのです。その理由は何と言ってもあとから作っているからで、東京のターミナル駅などは100年も前に建設されたところがほとんどなわけで、その駅の下には地下街があったり地下鉄が走っているところがあるわけです。そういうところに新しいショッピング街を建設する。線路の下だろうが線路の上だろうが、100年も前に建設された駅構内に、1日も列車の運転を止めることなく、あれだけの商店街を建設するということは並大抵のことではないと思います。

何しろ掘り起こしてみて初めて構造がわかることだってあるだろうし、予期しないものが出てくることもあるかもしれません。基礎の杭一本立てるにしたって、どこから資材を搬入して、どうやってやるのか入念な調査を行って、慎重のうえにも慎重に計画して、とにかく1日も列車を止めないで工事を行うわけです。まして列車密度といったら半端ではない。そういうところで工事をしなければならないということは建設費がものすごくかかっているはずです。だから、減価償却もその分大きくなるわけで、だとしたらなかなか利益が出ない構造になるわけです。

 

あくまでも私の想像ですが、売り上げだってたかが知れているはずです。

なぜなら、改札口の中の商売だからです。

例えば東海道新幹線を利用するときですが、私の場合は時間に余裕がある時は東京駅の大丸デパートの地下で買い物をします。その理由は、まずは駅弁よりもデパ地下の商品の方がコスパが良いと私は思っているからで、ましてデパ地下なら様々な商品が並んでいる。ちょっと飲みたい気分の時はワインとチーズを買って乗ることもできますし、第一デパ地下ですから売り場の中を何度も行ったり来たりして、「やっぱりあれも買っておこう。」となるのです。

これに対して駅中、つまり改札口の中の商売というのは、私の場合はだいたい発車まであと15分とか20分の時に利用します。最近では駅中でも商品数も豊富で、デパ地下とほとんど変わらない品揃えになってきていますが、それでも、改札口の中にいる人間としては、「発車まであと何分」という心理状況ですから、デパ地下のように何度も売り場を行ったり来たりして、あれもこれも買うということはありません。つまり、目指すものだけを買ったらあとはさっさと列車に乗り込むわけです。

そう考えると改札口の中の商売というのは、お客様の購買心理としては時間との勝負ですから、顧客一人当たりの売り場での滞留時間が短い。つまりは客単価が低いのです。

でも、だからといって駅中で商売をしている棚子さんたちは、客単価を上げるためにわざわざ高い商品を販売することはできません。当然家賃がかかりますからJRに対して売り上げの一部を納めなければなりません。それはデパ地下でも家賃がかかるので同じことなのですが、客単価が違ってくる中で、そんなに簡単な商売ではないのではと思うのです。

 

私は数字を見たわけではありませんから、あくまでも独断と偏見なのですが、難工事で建設費が多くかかる割には客単価が低く、様々な制約がある駅中ビジネスというのは、それほどうま味がある、大もうけできる商売には見えないのです。

でも、勝手知ったるお客様にとって見たら、箱詰めの工業製品のような駅弁を買うよりも、駅中でサラダやお総菜を買って列車に乗るのということをやっている人も多いですから、選択肢が増えた分ありがたいことだと思いますし、駅前商店街で駄目になる商売というは、別にJRが駅中をやらなくたってダメになっていくというのは地方都市を見ていれば誰だって理解できるでしょう。少なくとも私にとって見たら、駅弁よりも駅中のお総菜系を買って列車に乗る方がありがたいですから、別にJRが独占商売をしているとは思わないのです。かえって、そんなに苦労してお客様のために選択肢を増やしてくれているというのに、きちんと評価されないのは気の毒だなあと感じるのです。

 

さて、そういう観点から見てみると、近年開通した「上野東京ライン」なる路線も全く同じような気がします。

「この区間にどうやって鉄道を作るんだろう。」

東京生まれで東京育ちの鉄道少年としては、昔から常磐線の列車が東京駅まで乗り入れていたり、東北本線の臨時列車が品川始発だったことも知ってます。でも、その頃にはなかった新幹線がすでに開通している中で、限られたスペースの中で、新幹線も山手線も京浜東北線も毎日走らせたままで線路を作るという建設の経緯を見てきましたから、「いやあ、大変だよなあ。」というのが正直な感想です。

実際にできた線路もくねくねしてるし上に上がったり下に下がったり。

困難な工事の結果だということはすぐにわかります。

まして100年前に建設された遺構のような路線で、下には道路があるし地下鉄も走っている。

そんなところに線路を通したのが上野東京ラインですが、ではJRが儲かるかといえば、山手線や京浜東北線のお客様が分散されるだけですから、直接的には新規需要の開拓にはならないのです。私などは、東海道新幹線で帰ってきて京成電車に乗り継ぐのに、今までは東京駅で下車していましたが、今では品川で降りて常磐線の上野東京ラインに乗って日暮里まで来るというルートになりましたから、かえって東海道新幹線の特急料金が安くなったりしているのです。

 

そう考えると、上野東京ラインも駅中も、そこまでするのを「利益に走ってけしからん。」ということは、私にはどうも違うと思えるのです。

あくまでも私の想像の範囲でありますが、私は駅中も上野東京ラインも本当にありがたいと思っているものですから、こんなことを書いてみました。

 

まあ、国鉄の負の財産を国民に押し付けておいて、営業権などの正の財産のみの権利を主張するということは、この国の法律的常識から考えてみれば許されることではありませんから、そういうことは私たち以上の世代がいつまでも声を大にして言い続けなければならないということは事実なんですが、でも、駅中とか上野東京ラインのような仕事というのは、きっとものすごいご苦労があるだろうということもたぶん事実でしょうから、そういうご苦労をされてまで国民の利便性を高めようと努力してくれていることも事実になるわけで、私はそういう点はきちんと評価しなければいけないのではないかと考えるのであります。

 

だって、今から相互乗り入れとか、地下化して連絡輸送とか言ったって、都市部でさえ生産年齢の人口減少による輸送力の伸び悩みは容易に予想されるわけですから、決して安易に儲けることなどできないという時代がやってくる。

これだけは事実でしょうからね。

 

皆様、本当にご苦労様でございます。

私は頭が下がるのであります。

 

なお、あくまでも独断と偏見による意見ですので、あしからずご了承ください。

記憶の崩壊

 2017.05.16 Tuesday 

最近は脳みそがアルコール漬けになっているせいか、記憶というものが崩壊しつつあります。

 

当然ですが、その崩壊は大昔の記憶から順番に始まっていて、近年のものはまだかろうじて崩壊しないでいるのですが、時間が進む速度より崩壊の速度が速くなってきている気がして、いずれ崩壊が時間の進行に追いついてしまうのではないかという恐怖に時として襲われるわけです。まあ、人生という時間は限られているわけですから、いずれそうなって「何もなかったこと」になってしまうのは避けられないことなのですが、最近、そういう自然の摂理に対抗する手立てとして、崩壊してしまった記憶を元通りに戻せないだろうか、というようなことを考えているのです。

 

50代以上の皆様方でしたらどなたも経験していらっしゃると思いますが、どうしても思い出せないということが徐々に増えてきています。思い出せないということは、思い出そうと考えるから思い出せないことに気が付くわけで、思い出そうとしなければ忘れていることにも気づきませんから、もしかしたら30代、40代の皆様方でも記憶の崩壊はあるのかもしれませんが、50を過ぎて60に近くなってくると、懐古趣味とでもいうのでしょうか、どうも昔のことが懐かしくなるもので、30代、40代の皆様方よりもより多い頻度で昔のことを思い出そうという努力をしてしまいます。まして昨今では昭和ブームも手伝って、昭和のことをいろいろ再現してみようなどということをいすみ鉄道でも展開しているわけですが、そうなるときちんと検証してみる必要性にとらわれます。でもって古いネガなどを引っ張り出してみるのですが、例えば「昭和50年、室蘭本線」とか「昭和52年、函館本線」などというネガを見てみると、「はて、こんな写真撮ったっけ?」というのが出てきたりします。でも、前後のコマを見ると、「ああ、確かに撮ったなあ。」とわかるわけで、つまり、記憶というのは崩壊したものがまるで割れてしまった陶器やガラス細工の破片のように、そこらへんに散らばっていて、それを一つずつ拾って組み合わせるという作業をしていくと、崩壊してしまった記憶がだんだんと蘇ってきて、なんとなく形になってくるわけで、それがある程度の形になると全体像が見えてくるというのが、自分の頭の中で展開されている作業なのでありますが、自分として実に興味深いのです。

 

実は昨日も札幌でこの「記憶の断片を拾い集めて繋ぎ合わせる」という作業をしてみました。

50歳を過ぎると新しい友達などなかなかできないのですが、最近ではありがたいことに不思議と新しい友達がたくさんできて、いろいろな所に出かけるたびに、「じゃあ飲みましょうか」と会合を設定してくれます。でもって札幌の友人に、「15日に行きますよ。」と連絡を入れたら、「それじゃあ」ということで皆さん集まってくれました。つながりはもちろん「鉄」。でも、ただの鉄ではなくて「昭和鉄」でありまして、札幌の雑居ビルの地下にあるちょっと怪しい中華料理屋さんで、皆さんで鉄談義です。

昭和の鉄ですからカシオペアとかシキシマなどという話は出ませんで、出る話といえば「大雪5号」とか「オロハネ10」といった話題ばかりなんですが、おじさんたちとしては、それなりに盛り上がるわけです。

でもって、松山千春の「足寄(あしょろ)一枚」(←クリックすると動画が出ます。)の話になって、「こんなの見たら泣いちゃうよね。」とか言って、夜行列車が定宿だった1970年代の北海道旅行の話になって、「ユースホステルに泊まるのはぜいたくだったなあ。」となるわけです。

 

そこで私の頭の中に、ふと、思い出したことがありました。

 

「あの、札幌駅のすぐ近くのユースに泊まったんですけど。」

 

私の記憶としては、札幌駅は地表駅で、桑園側に大きな踏切がありました。

その踏切を渡ってすぐのところに鉄筋のビルが建っていて、そこがユースになっていました。

ユースホステルというのは民家だったり木造だったりが多かったんですけど、そのユースは鉄筋で珍しかった。

なぜか知らないけど、入口が階段になっていて、その階段を上ったところが玄関口。

踏切からは札幌駅の構内がよく見えて、その時「なんだあれは?」と思った車両があった。

朱色一色で、見たこともない面構え。ピカピカなディーゼルカー。

一番北寄りのホームに停まっていたからたぶん札沼線。

ネットなどないから、あとになって雑誌で見て知ったけど、それがキハ40系を私がはじめてみた瞬間で、首都圏色というのを見たのもその時が初めて。

昭和52年(1977年)8月。

 

自分の頭の中にあるこんな記憶のかけらを拾い集めてみたら、一緒に飲んでいた友人が、「今でもありますよ! 行ってみましょう!」ということで連れて行ってくれました。

 

 

 

 

そこがここです。札幌ハウスユースホステル。(夜なので写真が暗くてすみません。)

2017−1977=40

実に40年ぶりにやってきました。

確かに階段があって、その先が玄関。

当時のユースホステル事情から考えると別格の鉄筋コンクリート建て。

ずっと泊まっていたかったけど、ユースホステルは3か月前から往復はがきで申し込むシステムで、1泊だけやっと取れたんです。

そして、その夜この宿で出た料理は確かステーキ。

久しぶりに肉にありついてうれしかった記憶もつながりました。

函館本線は高架になっていますからすでに踏切はありませんが、ここに間違いありません。

いや〜、うれしかったなあ。

40年という歳月が、繋がったのですからね。

 

釧網本線の茅沼駅にあるMYドーリン。

北海道のお友達の皆さん、ありがとうございます。

 

 

これは当時の網走駅。

常呂・佐呂間方面、19:23の中湧別行。

まさしく「足寄一枚」の時代。

やっぱり泣いちゃうな〜。

 

 

 

 

 

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